人は、『恐れ』によっていとも簡単に人を除外する。
あるいは、巨大な無意識の内にある、日頃まったく気がついていない『恐れ』によって、自己防御のために「傷つけられた者たち」を自分の世界から見えないところに追いやる。
これらが“暴力的行為”であることを、自律した大人として学ばない者たちは、知ろうともしない。
「自我」もふにゃふにゃ。そんな自分の不甲斐なさを押し込めるために、純粋で愛情深く自己探求を真摯に続け生き続ける者を食いものにし、自分を優位に立たせようとする。
極めて暴力的。ということすら気がつかない。
なぜなら幼少の頃から周囲の大人たちにそのように扱われてきたからだ。
子どもは「親がいてこそ」安心してチャレンジができる。
けれど多くの親は、まず自分自身の『恐れ』から子どもに自分が予想しないことをさせようとしない。
つまり自分が扱いやすいように、あるいは自分が親として優位であるように子どもを支配する。
その多くがこれまた無意識で自覚がないことがほとんどだ。
他者のことではなく、「自分自身の在り方」に気を使ってきてない者は、当たり前のように何食わぬ顔で子ども支配する。
それが当然の日常ならば、子どももモデルである親のやり方を真似て(洗脳されているので)、自分がいざ親となった時にも親のコピーをやるのだ。
もちろん自身で もがきながら自己を築いていく人もいるが、そうではない者は自分が甘えられるような人物に(俺さまのように純粋で愛情深い人間)に無意識にスリスリ寄っていき、自分が優位になれるように勝手な文脈を作っていく。
自分を甘やかしてくれるはずのものがそれに従わなかったり、予想外の出来事があると、途端にその相手を潰しにかかるのだ。
(おいコラ、俺はおめえらの保護者でもねえ諸親でもねえぞ甘ったれんな)
要は、自分の親では出来なかった「親殺し」(成長期の自我形成に起こる、いわゆる反抗期的なプロセスだ。これがあるのとないのでは自律の度合いが雲泥の差だ)を、他人を使ってヤるのだ。
あぁぁああ〜恐ろしいやぁぁあ〜。
自らが苦難つづきを必死に乗り越え様々な学びを死に物狂いでやってきた純粋で愛情深い者たちは、このように学ばない大人たちの思い込みによって「悪者」にされる。
すなわち自分のママやパパがやってくれなかったことを、純粋で愛情深い者たちを利用(乱用)して解消しているだけだ。
これらは『投影』とも言える。
自分の中の気に入らない部分や、相手が欲求を満たしてくれないとなると、無意識的に相手の中に非を見出して悪者にすることで、なんとか自尊心を保とうとする。
否、そんなものは「自尊心」ではない。自分勝手な自分都合の他者の「乱用」だ。
ましてや、純粋で愛情深い者は、自分の辛い体験を吐露するという勇気を振り絞って『恐れ』を払拭して腹を破り、さらに「聞いてもらう人たちへの気遣い」すらしているにもかかわらず……。
その慈愛に満ちた気づかいを、何故だか「自分が攻撃されてる」と思い込み、ひるがえってバッサリ切り、ボッコボコにたましいを潰しにかかるのだ。
彼らの軸のないふわふわとした夢想の中で「わたしは悪者にされる」。
これが「いじめ」「モラルハラスメント」「虐待」「ドメスティックバイオレンス」「共依存」もろもろの“構造(システム)”です。
表に見える出来事は別でも、人の感情エネルギーの動き方「構造」は同種なのだ。
ふぅ……。
ようやっとようやっと所持金残り一万円というところで、もろもろヤられてきたプロセスを掘り起こして書き残せそうだ。
疲れたから今日はここまで。
なんとか飢え死にするまでに書き遺さねば。
《いつかの出さなかった手紙》
桃生かのこ
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